半身〜Aパート〜

                                                 Written by史燕


「これで、ここともお別れか……」
 2021年4月、世界は今、サードインパクトの傷も癒えはじめ、ようやく新たな一歩を踏み出そうとしていた。
そのような世界の中、第二新東京市の郊外にある孤児院を、一人の青年が人知れず後にした。
青年の名は碇シンジ、かつて不幸な戦争と陰謀の渦中へ巻き込まれていき、世界を滅亡させかけた人物である。

 当時、NERV本部は完全に崩壊し、エヴァも全て消滅していた。
NERVの関係者自体も、彼の他はみな死亡ないし行方不明となっている。
身寄りのない彼を扱い兼ねた政府は、未成年故に罪を問うこともなく、市の経営する孤児院で、成人するまで生活させることとした。

 そんな彼も、無事成人し、社会へと復帰することとなる。
彼は当座の生活費に加え、市内に所在するアパートの一室と家具一式を支給され、最低限の生活が保障されている。

「ひどい顔だなあ、まったく」

 青年は鏡を見ながら、一人そうこぼした。
元来華奢な体つきであるが、貧乏な孤児院の生活でさらにやせ細っている。
髪はぼさぼさで無精ひげが生え、見事な悪人面である。
ただ、その瞳だけは、きれいに澄んだ目をしていた。

「これじゃ、父さんよりひどいや……。えっと、剃刀は、っと」

 ひげを剃り、髪を整えた彼の姿は6年前の面影を残しながらも精悍な様相を表している。
孤児院での労働が影響しているのだろうか、細身なのは相変わらずだが、その体は引き締まっており、青年がまぎれもなく男であることを示していた。

「それじゃ、行ってきます」

 そういった後、(ひとりでなにやってんだろう)と苦笑しながら家を出た。
午後になって、これから近所を少し回ってみるつもりのようだ。

20分ほどかけて周囲を見回った後、シンジは第二新東京大学の前に来ていた。

(大学、か……)

無論シンジも義務教育レベルの教育は孤児院で受けてはいるが、大学生活はおろか中学校生活すら満足に送ることはできなかった。

彼の瞳に浮かぶのは、羨望と憧憬――そして諦念であった。
全てを受け入れ、仕方がないことなのだと理解している、その表情には哀愁がたたえていた。

 踵を返して家路を辿ろうとするシンジの目の端に、一瞬、透き通るような碧い髪が見えたように感じた。

(……綾波?)

 彼が気付いた時にはすでに周囲にその痕跡なかった。
そして、彼はかつての戦友であり、淡い恋心の対象でもあり、いまはもう消えてしまった少女に思いを馳せた。

(気のせい…だったんだろうな)

今はもういない少女、綾波レイ…自分のために駆けつけてくれた――そして、消えてしまった女の子。
 先程の碧い髪、彼女の髪と同じ色の髪が、その日一日、ずっと頭から離れなかった。



 翌朝、身支度を整えた後、シンジは部屋を後にした。
今日は職場への初出勤である。

(え〜っと、たしかこの路地を右に曲がって、と……)

 近所の職場への道のりは、すでに下見を行っていたため、迷うことはなかったが、近づいていくにつれて、少しずつ緊張が彼を苛み始めた。
 何せ今までバイトひとつしたこともないのに、施設を出てから、さっそく正規就職である。
身寄りのない人々を迎える世間の風はあまりにも冷たい。
しかしこの第二東京では、一般市民や企業の担当官が面接を行い、雇うと決めた場合はその職場へと、就職させてもらえる。
工場・工事現場やコンビニといったバイトの定番である職場もそうである。
公園や公衆トイレの清掃員など、なり手が少ない業種に至っては、市自体が雇用したり、市と契約している業者でも優先して斡旋したりされるほどだ。

 とはいえ、シンジが勤めることになる職場はこれらとは少し違ったものである。

(……「和泉古書店」、ここだ)

彼の目の前には、いかにも古びた、古民家といっても差支えの無いような建物が建っていた。

「……ごめんください」
「いらっしゃいませ」

 おそるおそる中に入ってみると、店の奥から、低い、穏やかな声が彼を迎えた。

「すっ、すみません。今日からこ、こちらに勤めさせていただくことになりました、碇シンジです」
「おや、あなたですか。どうぞこちらにいらしてください」
「は、はい」
「そんなに緊張なさらずに、もっと肩の力を抜いてくださいよ」

 そう店主に声をかけられて、初めてシンジは力を抜き、少し心に余裕を持つことができた。

 本がめいっぱい詰め込まれた本棚の間を通り抜けて奥にたどり着くと、そこにはカウンター代わりと思わしき長テーブルと二つの椅子が置かれていた。
申し訳程度に隅っこに鎮座しているレジスターが、ここがカウンターであることを主張している。
椅子の片方には店主と思われる老人が座っていた。
雰囲気はやさしく落ち着いており、好々爺を絵にかいたような人物だ。
店主はシンジが奥にたどり着いたのに気付くと、手でもう片方の椅子に座るよう促した。

「そういえば、シンジ君はいくつでしたっけ」
「はい、二十歳です」
「二十歳ですか、若いですねえ」
「は、はあ」
「シンジ君、若いというのは素晴らしいことですよ。これから前に進んでいける、そういう力を持っているということです。私のような老いぼれには到底真似することができない」
「え、ええ」

「おっと、私の自己紹介がまだでしたね」
「私は、和泉ソウイチロウ、齢は六十七になります」
「見てくれはご覧の通りの老いぼれですが、一応この「和泉古書店」の店長でもあります」
「まあ、自分の家のようなつもりで勤めてください」
「……はい」

 シンジが口を挟む間もなく話を終えた和泉は、さらに奥へと席を立ってしまった。
シンジが手持無沙汰となっている合間に辺りを見回してみると、多種多様な本の数々が、整然と並べられていた。

(『日本古典大系』『芥川龍之介全集』『大漢和辞典』『トルストイ著作集』『純粋理性批判』……)

 もしかすると、下手な大学以上の蔵書数である。
ひなびた建物ではあるが、書籍には塵ひとつついていない様子が見て取れた。

「なにか、気になる本でもありましたか?」

和泉に声をかけられるまで、シンジは彼が帰ってきたことに全く気付いていなかった。

「和泉さん」
「ソウイチロウ、で結構ですよ。もしくはおじいちゃんでも」
「……ソウイチロウさん」

少し残念そうな顔をする和泉を尻目に、シンジがテーブルの上を指さすと、そこには煎餅とお茶が並べられていた。

「なんですか、シンジ君」
「これって、いいんですか?」
「構いませんよ、このテーブルの周りに本はありませんし、この店で働いているには、私とシンジ君しかいませんし……」

(そうじゃなくてお客さんは……、いや確かにいないけど)

 朝早いのもあってか、店内にはシンジと和泉以外に人はいない。
かといって、それでいいのかと言われれば否定すべきなのだが、肝心要の店主がこの通りである。
シンジにどうにかしろという方が酷だろう。

結局その日は店主と従業員とで仲良くお茶した後は、奥の台所で仲良く昼食を作り、そのまま二人仲良く昼食を頂き、そのまま仲良く閉店まで雑談をしながら店内の掃除をした。

「いや〜シンジ君、久々に私以外の人がいて楽しかったよ。いつも週に一人二人店に立ち寄っていくぐらいだからね」
「それでよく潰れませんね」
「うん、うちの収入源は高品質、早い、安いが自慢の直営ネット通販ですからね。掃除以外の仕事は基本そっち関係ですよ」
「じゃあ、店を開ける意味ってあるんですか」
「ありますよ、たまに熱心な学生さんなんかは学校帰りに立ち寄られますし、この間なんかはここにあった『国史大辞典』全巻セットを買っていかれたがくせいさんもいらっしゃいましたよ」

店主が示した場所には、他の棚と異なりぽっかりと大きなスペースが空いた棚があった。

「あ、明日は『国史大辞典』が届く予定なので、またそこに並べますよ。一緒に手伝ってくださいね」

明日からさっそく重労働になると宣告をされた後、そっとシンジは帰途についたのであった。




次へ

書斎に戻る

トップページに戻る